大地震の発生

2月6日、地震が起きた時は皆就寝中であった。早朝4時頃のことだ。今でも、誰に聞いても、地震が起こった時に寝続けていた者などいない。実際何か、地面に摩擦が起こっているような大きな音が聞こえた。非常に恐ろしく、しかも何が起こっているのかすらわからなかった。皆寝ていたわけだが、大きな揺れがあり、子供を起こして、皆何とか通りに出ました。私たちはこのような地震には慣れていない。地震だと分かるまで時間がかかった。とにかく恐ろしかった。そして電気もネットも使えなくなった。だから少なくともこの時の私はこんな規模の破壊が起こっているなど想像ができなかった。

その後、余震も何度か起こり、そこで初めて何が起こっているかがわかり始めた。しかし皆、何をして良いのかわからない。ネットも十分にない中で、私もこんな大規模の災害がここで起こっているということがよく理解できないのだから。そこで、ネットの通じている地域に行って300通のメッセージが入っていることに初めて気がついた。トルコにいる友人たちなどが安否を確認するためにメッセージを送ってきていたのだ。ネットを開けて初めて多くの建物が崩壊したことを知った。

そこで、私は友人や地域の人々などの安否を探り始めた。そして、震源地がどこかということも把握し、どこそこの家が崩壊したということを続々と聞いたので、まずは親戚や友人たちの消息を調べる必要があった。最初の日に、友人の家が崩壊したと聞き、そこにまず向かった。現場に着くと、その地域の全てが崩壊していた。ここで、まさしくこの苦悩が始まったと言える。瓦礫の下から子供や女性のうめき声が聞こえるのだ。ここで本当に大きな苦悩が始まった…。

人々は救援活動に早速入った。人々は素手で救援活動を始めた。ホワイトヘルメット(民間防衛隊)ももちろん懸命の活動をしているが、できることは非常に限られていた。つまり、救助活動に必要な重機が全くないのだ。小型ショベルカーのようなものは辛うじてある場合もあるが、建物の天井を持ち上げるようなことはできない。そこで、現地住民たちが石をよけたりして作業をし、さらにその人も怪我をするなどということもあった。もちろん、彼らは何も効果的なことはできないことは分かっているが、それぞれができ得る全てのことをしていた。というのは、瓦礫の下で誰かが叫んでいるのを聞いているのは非常に辛いことだ。その叫びが女性のものであれ、男性であれ、子供であれ…。そして彼らに何もしてあげることはできないのだから。

そこで我々や地元メディアは国連に対して救援に必要な重機を入れるように訴えを始めた。初日はもちろん、2日たち、3日経っても、人々を助けるための重機は全く入らない。そこでの人々の失望は、つまり少なくとも亡くなった家族のいる人々は、最後には国際社会に抗議し、国連に反対する声となった。「どうして私たちをほったらかしにするのだ」と。当初から国際援助がトルコやアサド政権側に入るということを聞いていた(実際にそうなった)のにも関わらず、私たちの地域には全く何の援助もなかったのだから。

この国際支援の絶望的状況について言えば、初日から3日目までは北西シリアの国境は封鎖されていた。つまり北西部で救援作業をしていたのは現地にいたシリアの地元団体(民間防衛隊、人道支援組織、そして一般住民)のみである。この人たちだけが、この大規模な緊急事態の中で非常に限られた機材と共に救援活動を行なっていたのだ。最初の数日は、国際的な支援は一切なかった。

そこで病院にも非常な圧力がかかった。現地は遺体や、けが人や病人で溢れかえっていたのだから。そして病院は公立のものも私立のものも共に無償で診療していた。この時点では、住民はほぼ全員が民間防衛隊の役目を務めるようになった。誰もが緊急救助活動を始めたのだ。人道支援団体に限らず、一般の市民そのものが。

 

震災初日の終わりから2日目にかけて、地元の人道支援組織が緊急支援活動を始めた。仮説シェルター、つまりテントの設置などだ。地震が起きた日の気候は非常に寒く、雨も降っていた。家が倒壊した者たちに限らず、更なる倒壊を恐れて住民皆が路上に出たが、どの家族もまず必要としたのはテントと毛布と温かい食事だった。それが当時まず生存することができた人々から求められたことだった。

SSJも即座に緊急支援を展開した。ヒアリング調査を重ね、そして物資の購入に入ったわけだが、そこで驚く事態に遭遇する。テントがないのだ。市場でかろうじて少しは見つけることができたが、とてもこの被害の大きさに見合う数ではない。というのは、最近は国連からの通常支援も減っており、テントなども入ってきていなかった。地元における支援形態も、人々をテントから仮設住宅へという形に変わっていた(これも国際社会の支援ではなくシリア人主体のもであることは明記する)。このような背景から、2日目にはテントの備蓄は無くなってしまったのだ。我々は鍛冶屋と協力して一からテントの骨組みを作り仮説テントを制作することにした。このように重機材に始まり、仮説テントさえも不足する状況が続いたのだ。

ここで人々の国際社会に対する不満はより高まった。どうしてこのような災害発生時においても国境から支援が入らないのかと。テントは生活のために必要な最小限のものだ。それが緊急時なのにこの地域には入らない。そこで訴えは当然ながら強まった。
どうして国連は基本的な人道支援を、各国からの支援を入れないのだという非難の声が高まった。私たちは各国の政治状況は理解している。各国は政治的にも、あるいは軍事的にも、シリア危機に介入しないこともあった。あるいはこの10年間の革命に対しても。でもこの地震は自然災害である。しかし各国や国連はこれにまで政治を持ち込んだ。

この間、アサド政権側には支援が入っている。私たちは、つまり北西部地域の人間は、地震のずっと前に皆政権側から逃げてきた者たちだ。ホムスやダマスカス、アレッポに家を持っていた。しかしそれを全て投げ出して、政権の不公正な弾圧から逃げてきた。私は問いたい。彼らが政権を介しての支援をもらって満足すると思うか。彼らは自分たちの家、生活を捨ててここにきたのだ。一体どのようにその政権が支援をするなどという状況が受け入れられるのか。

私たちは、シリア人は12年前の今日、革命に立ち上がった。それは今ここで、テントの話をしたり、支援の食料バスケットの話をするための革命ではなかった。私たちは人間としての気概を持ち、革命のために立ち上がった。国際社会の支援は、ここにいる人々を、孤立した、貧しい、「物乞い」にすり替えてしまった。革命に立ち上がった人々は、テントで生活したり、パンを乞うために立ち上がったのではない。

ここにいる150万人の人々は、あのアサド政権の弾圧、監視、不公正に戻ることを拒否する者だ。国連は全くこれを理解していない。いまだにアサド政権に支援を送って、それで私たちを「食わせて」くれようとしているわけだ。

私はSSJの現地責任職員として、支援物資を撮影しながら、非常に恥ずかしく思っている。なぜか。それは私にはできることが、あまりにも少ないからだ。例えば、ある子供ーこの子の父親は民主化革命に命を捧げたーはなんと多くの犠牲を払ったか。だけど私たちはこの子のところに来て、被害状況を記録するために写真を撮って、簡単な支援物資を渡す。あるいは、テントに住んでいる家族の母親は4人の子供を育てていて、彼女の夫も自由を求め命を落とした。彼女はどんなに苦しくても政権側の地域に戻ることだけは拒んでいる。 私たちはこのように尊厳を求めて未だに闘っている。彼らに対して、私たちは生活に必要な最小限のものしか提供できないのだ。私は、非常に恥ずかしく感じ、計り知れない葛藤の中にいる。

一方で政権支配地区では、バッシャール・アサドが地震の被災地を訪問して笑っている。私はこの2週間、自身の子供の前でさえ笑うことはできていない。未曾有の地震が起き、多くの国民が苦しんでいる日に、大統領としてどうして笑うことができるのか。いまだに理解できない。
そして、この大統領は国民に対して「命の線引き」をしているわけだ。アサドは北西部に支援を入れることを意図的に拒み、私たちを孤立させ、死を与えた。緊急時の支援活動において、まず人命のことを考えるべきだということは当然のことである。北西部で活動する私たちが救援支援するときは、誰であれ私たちの助けを必要としている人に支援を配るのみだ。例えばSSJはアフリンでも活動し、イドリブでも活動した。私たちSSJのチームが支援に行く時、被災者にあなたはどこ出身だ、クルド人か、アラブ人か、などと聞いたりはしない。ましてやあなたは反体制派か、親政権かなどと聞いたりすることなど決してない。そんなことを言うのは恥(*アイブ:非常に自分にとって不名誉なことの意)だ。私は被災者の政治的志向などをそこで聞くのはもってのほかだと思う。人が寒さの中で泣き叫んでいるのに、そこで反体制派か、親政権か、クルド人かアラブ人か、などと聞くだろうか。そんなことは、全く受け入れられるものではない。被災者の生に境界線を恣意的に作ることなど本来あってはならないことなのだ。

私たちは、政権支配地域に暮らし被災した者たちも必要な支援をされるべきと考えている。政権側の地域を支援する組織も現に在る。その組織が直接支援活動するならば問題はなく、歓迎されるべきことだ。しかし、私たちが問題だと指摘しているのは、支援物資や資金をアサド政権に渡すということだ。この政権は、現在北西部に追いやられる人々に幾度となく移住を余儀なくし、そして数えきれないほどの市民を殺戮してきた。そのような政権に人道支援を司る組織が支援を委ねるとする。しかし、その政権は12年にわたり自分の国民を迫害してきたのだ。良識のある人からしたら、これがいかに論理的ではないかすぐにお分かりだろう。

この12年間のシリア危機の中で、国際組織による人道支援や国連による緊急支援という計画が設定され、支援がシリアに入ってきた。そうするとアスマ・アサド大統領夫人やラミ・マフルーフ(大統領従兄弟で富豪)の様な政権側の人間ー彼らは民衆の革命を潰しにかかった人々ー、彼らが支援活動を始めた。そして彼らはシリア側で国際支援を受け取る拠点を支配していることは国民なら誰もが知っていることだ。

シリアの人々はこの10年余りの間に、各国の政治への信頼を失った。しかし、まだ人々への信頼は失っていない。私達が国際社会から見捨てられた北西部で支援を配るとき、これが日本の人々から来たということだけでも十分な支えとなる。確かに、政府からの支援は大きなものである。しかしSSJの支援は、「人」に関心を持ってくれている日本の人々から来たものだ。この血の通った支援は、今まさに北西部の被災者に必要なものであろう。

私たちシリア人は、一般的に日本人は平和的で優しいと感じていた。この感情はずっと続いているが、今はSSJを通してそれが確認されている状況だ。というのは実際、北西部に拠点を構え地道にずっと支援活動をしているのはSSJだけだから。これが小さくてもどれほどシリア人の支えになっているか。

大地震から1ヶ月以上が経過した。しかし、正直言って、皆今でも、非常に地震を恐れている。今日でも恐怖から、夜になると車の中で寝てみたり、家があってもその前にテントを立てたりして寝ている住民が大勢いる。
私たちの苦難は終わってなどいないのだ。

私は最後に問いたい。ここにいる人々、つまりテントに住んだり、仮設キャンプに住んでいる人々。彼らは「物乞い」になりたいわけでもないし、「貧しい」人々でもない。この状況を見て、多くの人は強引に「シリアの北西部の人々は食べ物が欲しいのだろう」などと思うだろう。でも現実は違う。彼らは可哀そうな人などではない。避難民の中には男女問わず大学の先生もいれば、エンジニアもいれば、医者や看護師もいる。彼らには財産があり、自力で暮らす生活があったのだ。彼らは、人間として約束されたはずの当たり前の権利(人権)を求めて路上へ繰り出した。しかし各国や国際社会の失策によって、今このテントに住むことを強いられているのだ。彼らが革命に立ち上がったのは、何もテントに住むためではない。彼らは物乞いではない。彼らは可哀そうな人ではない。このことだけは、世界中にわかってもらわなければならない。

各国の政治、国連の不機能、そしてそれを傍観した世界中の人々は私達シリア人の真の要求を歪め、私たちが何と闘い、そして何のために革命に乗り出したか、これを歪めてしまった。私たちの革命は、こう言った大きな組織や政治に溶かされ、すりつぶされていった。
そして、大地震が起こった時においてさえ、国境を開き基本的な人道支援を求めることさえも、非常に大層な注文となってしまったのだ。

私達は、今日北西部で困難を強いられる人々は犠牲者だと思う。ここにいる人々は全て国際社会の堕落と国際政治の犠牲者だ。圧倒的な暴力で私たち市民を抑え込んだアサド政権を容認した世界の犠牲者だ。

 

私たちが自由、尊厳、公正を求め、路上に繰り出してから12年。幾度とない殺戮と破壊、世界の裏切り、そして災害に見舞われても、ここにいるすべての人々はあの日と変わらず果たす目的を持ち、闘い続けている。各国政治がだめでも、国際社会がだめでも、皆さんは同じ人間として、私たちの側に立って欲しい。
シリアは終わってなどいない。人々はまだ諦めてなどいない。その証拠に、今日私たちはここに革命と共に生きているのだから。