
Hadi Al Abdullahハーディ・アル=アブドッラ
ハーディ・アル=アブドッラ(Hadi Al Abdullah)はシリアを代表するジャーナリスト、アクティビスト。1987年8月5日シリアのホムス県アル=クセイルに生まれる。現在、イドリブ県在住。ティシュリーン大学で看護を学んだ後、ティーチングアシスタントとしてバアス大学で勤務するものの、1ヶ月半後の2011年3月にシリア革命が起こり、友人たちと共にホムスの路上に繰り出した。革命に参加するとともに、カメラでその様子を収めて発信するメディア・アクティビストとして活躍することとなる。革命の初期には、抗議デモの様子と、それを武力で弾圧するアサド政権の残虐性を詳細に記録した。
ハーディは、その後ジャーナリストとして9年間、故郷ホムスでの平和的革命から反体制派最後の都市イドリブで起きる最悪の人道危機に至るまで、シリアで起きた最も顕著な出来事を全て目撃し、その最前線から世界に発信することとなった。特に、ヒズボラ(レバノンを拠点に活動するシーア派の過激派組織)がシリア紛争に関与し、軍隊を展開していることを実際に告発した最初のジャーナリストの一人となり、当時これを否定していたヒズボラに命を狙われることとなった。さらに、ロシアとイランの紛争への積極的な参戦を当時最前線であったダマスカス郊外のカラムーン山から記録した。ここでは、当時カメラマンとして共に活動していた親友のハーリド・アル=イーサ(Khaled Al-Eissa)と暮らしていた隠れ家に爆弾が仕掛けられ、ハーディとハーリドは吹き飛ばされる。ハーディは重傷を負いながらも命を取り留めたが、ハーリドは残念ながら助からなかった。親友を失ったハーディは深い喪失感に襲われるものの、ハーリドの意志を引き継ぐことを決意した。
その後も、虐げられる市民の声を届けることに信念を注ぐハーディは、幾度とないアサド政権による追撃や過激派組織による拉致に直面する。
このような想像を凌駕する死の危険と破壊を経験しながらも、ハーディは現在、世界で最も危険だと言われるシリア紛争の最前線であるイドリブ県に依然として留まり、そこで起きていることを克明に記録し、世界に伝え続けている。
ハーディの比類ないジャーナリズム精神は世界的に最高峰の評価を受けている。2016年、国境なき記者団(RSF)世界報道自由賞(ジャーナリスト部門)を受賞するなど、これまでに数々の国際的なジャーナリズム賞を受賞している。
国際的なステータスを得ながらも、ハーディは、シリア北部で生きる市民と共に最後までシリア国内に残り、カメラやマイクと言った限られた機材を最大限に用いて、シリアの人々の声を世界に伝え続けていくことを誓っている。
ハーディは、その後ジャーナリストとして9年間、故郷ホムスでの平和的革命から反体制派最後の都市イドリブで起きる最悪の人道危機に至るまで、シリアで起きた最も顕著な出来事を全て目撃し、その最前線から世界に発信することとなった。特に、ヒズボラ(レバノンを拠点に活動するシーア派の過激派組織)がシリア紛争に関与し、軍隊を展開していることを実際に告発した最初のジャーナリストの一人となり、当時これを否定していたヒズボラに命を狙われることとなった。さらに、ロシアとイランの紛争への積極的な参戦を当時最前線であったダマスカス郊外のカラムーン山から記録した。ここでは、当時カメラマンとして共に活動していた親友のハーリド・アル=イーサ(Khaled Al-Eissa)と暮らしていた隠れ家に爆弾が仕掛けられ、ハーディとハーリドは吹き飛ばされる。ハーディは重傷を負いながらも命を取り留めたが、ハーリドは残念ながら助からなかった。親友を失ったハーディは深い喪失感に襲われるものの、ハーリドの意志を引き継ぐことを決意した。
その後も、虐げられる市民の声を届けることに信念を注ぐハーディは、幾度とないアサド政権による追撃や過激派組織による拉致に直面する。
このような想像を凌駕する死の危険と破壊を経験しながらも、ハーディは現在、世界で最も危険だと言われるシリア紛争の最前線であるイドリブ県に依然として留まり、そこで起きていることを克明に記録し、世界に伝え続けている。
ハーディの比類ないジャーナリズム精神は世界的に最高峰の評価を受けている。2016年、国境なき記者団(RSF)世界報道自由賞(ジャーナリスト部門)を受賞するなど、これまでに数々の国際的なジャーナリズム賞を受賞している。
国際的なステータスを得ながらも、ハーディは、シリア北部で生きる市民と共に最後までシリア国内に残り、カメラやマイクと言った限られた機材を最大限に用いて、シリアの人々の声を世界に伝え続けていくことを誓っている。